(2017/12/23 の「おんころカフェ」より)
1.りんごの木を植える
突然ですが、明日世界が滅びるといわれたら、あなたは何をしますか。死ぬ前にさんざん好きなことをしてやろう。そう思わなくもないでしょう。ところが淡々と、ゆうゆうと、次のように語る人がいました。「明日世界が滅びるとしても、私は今日、私のりんごの苗木を植えるだろう」。
「私の苗木」っていうのがいいですね。育って実をつけるのを見届けられないとしても、苗木を手塩にかける自分がここにいる。世界に慈しみを発散している「今」がある。その充実のひとときを味わおう…。
宗教改革を始めたドイツのルターに由来するともいわれます。「いや、この言葉はルターらしくない」と反対する学者もいます。世界が滅びることを気にするなんて、彼の思想に合わない、と。
2.国破れて…
もともと誰が発したにせよ、第二次大戦中、あるドイツの牧師がこの言葉を引用したあたりから有名になりました。戦場に斃れ、帰ってこない男たち。爆撃や砲撃で破壊された国土。その苦難の中で、女たちはこの言葉から「生き続ける勇気」を汲み取ったそうです。
かと思うと、真に受けて、どんどんりんごの木を植えた人たちもいます。エコロジー運動家たちは、それで自然を「滅び」から救おうとしたんですね。
3.計算でない強さ
ルターを論じる資格はない私ですが、「りんごの木」はやはり彼のオリジナルではないか。何となくそう思うのは、彼には「空気を読まない」強情さがあるから。たとえばこんなことを言う人です。「ここに私は立っている。それ以外私にはできない。神よ、救いたまえ」。それ以外、私にはできない――そう言い放つ不敵さが、「りんごの木」の話の底に流れている。今を生きる。それ以外は信じない。その次元に立つと、私たちの魂は飛躍します。生命を持続や長さで測る「生存」ではなく、真の自分の密度を生きる「実存」へと。理性や計算というものを逆に問い返す、芯の強さ。私たちも見習っていいのではないでしょうか。
4.ある写真集より
死を前にした父が、庭先のまだ幼いぐみの木を見やって落涙していました。孫たちがやがてその実を口にする日を想い描いていたのです。りんごよりも小さく地味な果実、そしてルターよりも弱い人物の光景でした。
おんころカフェ進行役 中岡 成文
●「おんころのたね」とは?
おんころカフェでは進行役の中岡が、対話を始めるまえに、みなさんの発想の「たね」になりそうなことを、少しご紹介させていただいています(その日の対話のテーマとは、直接の関係はありません)。