(2018/11/24の「おんころカフェ」より)
1.在る
生まれたばかりの赤ん坊は、何もできません。ただ、そこに息をして、泣き叫んで、「在る」だけです。世話を受けないと生き続けられません。赤ん坊はとことん受け身で、「在る」ことの意味は、他者から付与されるしかありあません。弱い存在だからこそ、周りから手を差し伸べたくなるのでしょう。なにかふしぎです。人間存在の原点かもしれません。
2. 為す
私たちは成長するにつれ、「できる」ことが少しずつふえます。社会のなかで役割を引き受け、いろんなことを「為す」よう期待されます。いわば世間的な価値が増し、その意味で強くなるわけです。ただ、大きな病気やけがなどで、それまで「為せ」ていたことができなくなると、一転、大きなとまどいが生じます。あれ…? そんなはずではなかったのに…。自己イメージを立て直して、世界と社会に新たな船出をしなければならない。――人間の根っこが問われるこんな危機を、あなたはもう経験されたでしょうか。
3.「在る」ことの哲学
在ると為す――この対比は、新渡戸稲造のことばにヒントを得ています。以前、五千円札の肖像に登場した人ですね。彼は、武士道の精神や品性をたいせつにして、「何かをやろうとする前に、何者かであれ」と言ったそうです。何者かであれ。この「在る」は、赤ん坊がただ「在る」のと違いますね。
古代ギリシアの哲学者アリストテレスも、「正しいことを為す」のと、「正しい人で在る」のは違うと述べています。たまに正しいことをするだけなら、悪い人にもできるのです。正しい人は、正しくあり続けるだけの心構えをもっています
かくいう私も、おんころカフェの進行役としてみなさんの前に立つとき、たまたま進行を「為す」だけではなく、進行役で「在る」つもりなのです。いい「触媒」になって、みなさんの発言を引き出し、対話を活性化したい。そこに向けて、熱意と志を持続し、少しずつでも自分を鍛えているつもりです。
4.「為す」を超えて「在る」
知り合いの林靜哉さんは、これといった治療法のまだ見つからない難病ALSと、長年つきあってきたいま、この病気を「気まま」に生きるのだとおっしゃっています。がんで近ごろ亡くなった女優・樹木希林さんの晩年の演技は、「凄みと軽やかさ」で目をくぎづけにしましたが、林さんの「気まま」さをベッドのそばで見ていると、私は同じ感想をもちます―軽やかにすごい、と。
かたや、生き様そのものと区別できない自然な演技。かたや、手術をくぐり抜け、困難な療養生活のただなかに開かれた、死と向きあう快活さ。ふたりの境地は、ふつうの意図とか計算とかをすっと超えるものです。まさに、「為す」を超えて「在る」すがたなのでしょう。
おんころカフェ進行役 中岡成文