おんころ Café

おんころのたね・その8 「街を去る」

1.いのちの冒険

 大学生の夏休み、よく山を歩きました。冬山や岩壁ではなくても、信州の3000メートル級の山々を友人たちと縦走した体験は、私にとって生涯の宝です。山では、街とは違う自分がいます。薄くなる空気にあえぎ、汗をぬぐい、重い一歩を進めているときは、なぜこんなしんどいところに来たのかと後悔します。しかし、尾根に出て涼しい風に吹かれ、頂上に立って四方の山々やふもとの街を見下ろしたときの、あの高揚と爽快。その非日常の感覚は、まだ高校生だった私が三月の雪に埋もれた山(といっても低山)の人気のない空間で、〈神〉と向かい合っていると実感した、あの時に発するのかもしれません。

2. 登る意味、救う意味

ということもあって、山岳救助ボランティアの島崎三歩を主人公とするマンガ「岳」が気に入っています。リアルな描写が特徴です。転落者の凄絶な姿。救助ヘリに吊り下げて運ばれる遺体。もう「人」の尊厳をもたない「モノ」だから、ヘリの中に入れてもらえないのです。そんな最期を遂げるために人は山に登るのか。救助者にも自問と葛藤があります。助けた登山者からは感謝されるが、間に合わずに死なせてしまった遭難者の家族からは、きつい言葉を浴びせられる。そこまでして、なぜ救助するのか。

もとは同種だった人間たちが、二つの側に分かれます。山に登る人と、街にとどまる人。登山者と、その家族。遭難した人と、救助に向かう人。そして救われる人と、命を落とす人。遭難したあとも登山を続ける人と、救助者に転じる人。それぞれに思いがあり、多くの〈両側〉があるのです。

3.四語のメッセージ

 北米の山々に三歩と同行した友人が、単独行のヒマラヤで凍死したあと、ごく短い遺書が届きます。〈Summits with you. Thanks!〉 共に登った峯々、ありがとう! 読んだ三歩に涙はありません。多くの死を見て、鈍感になっているのか。いや、彼は知ったのでしょう。多くの死がある。生と同じだけあることを。

4.生きつづける。街であれ山であれ

 ひとは生きることに集中し、動いているとき、体験をかみしめる余裕はありません。立ちどまったとき、感情がわきます(泣く、笑う)。当人がそうなら、では寄り添う側、援助する側はどうなのか、ふと考えます。

山での援助者は三歩のような登山のプロたちばかりではありません。登山者を高山病や低体温症から救う、山岳医療救助という活動も始まっています。ひとは生きるか、死ぬか、最終的にはどちらかに転ぶでしょう。しかし、結果は運命で決まるのではなく、生きる意志や助ける努力がそれを動かします。

                     おんころカフェ進行役 中岡成文