おんころのたね・その2「花は誰のために咲く?」

(2017/10/28の「おんころカフェ」より)

 

1.無心
おんころのたね(種)で、「花が咲く」お話をする――面白い偶然です。

人の生き方を花にたとえるって、よくありますね。「花の命は短くて…」と人生を嘆いた女性の小説家もいました。

「花は誰のために咲く?」というのは、禅の言葉で、「百花為誰開」とも書かれます。人が花の気持ちになれるとして、花はたとえば、チョウやミツバチにみつを提供するために、咲いているんでしょうか。その美しさで人間の目を喜ばせるために、咲いているんでしょうか。

それとも、花は自分のためというか、ただ無心に咲いているだけで、「誰のため」でもないんでしょうか。宗教者はそう解釈するようです。


2.詩人とその妻

「花は何故美しいか。一筋の気持ちで咲いているからだ」

静かに生きた詩人、八木重吉は、この静かな詩句を残し、結核で世を去ります。残された妻は、生きがいだった二人の遺児をも同じ病で失った…。打ちひしがれたある日、夫の詩稿の詰まったバスケットを開けて読んでみた。「ああいまの私に遺されたものはこの詩たちだけだ。(中略)今も生きている詩たち」と思ったそうです。

詩人、そして彼の死と愛児の死に耐え、夫の詩を世に出した妻――逆境が少なくなかったであろう、これらの「花」たちはどのように咲いていたのか。色あざやかに香りを放つだけが、「咲く」ことではない。とても地味なひっそりとした咲き方もあると思います。


3.答えが開けてくる

「花は誰のために咲く?」に戻ると、花に心はありません。ただ自然にそこで咲いている。だから、「誰のために」という問いにストレートな答えを探すと、どこにも見つかりません。問いを心に抱いて、探求し続けること自体が大事なのでしょう。そのうちに、問いは変容します。答えが豁然(かつぜん)と、つまりからっと開けてくることがあります。

「花は何故美しいか」という「なぜ」の問いに、「ひとすじの気持ち」だからとふしぎな答えを出した詩人も、たぶんこの思いだったのでしょう。


4.置かれた場所

咲き方に貴賤はありません。私がUターンした郷里は、基地の街で、歓楽街があります。「伝説のストリッパー」と呼ばれる、いまは老いさらばえた女性が、道をよろめき行くのをときおり見かけ、いつもは目をそらしていました。ある朝、粋(いき)で鮮烈なジャンパーをまとい、色の合うピンクの靴下をはいている彼女と出会い、「この人も花なんだ!」と息をのみました。

花の種はどこに落ちるかわかりません。どのような力によって、そこに置かれたのか。どんな環境であろうと、最善を尽くして咲くのでしょう。外からはうかがえない、無数の努力を尽くして、ひとすじに。

おんころカフェ進行役 中岡 成文


●「おんころのたね」とは?
おんころカフェでは進行役の中岡が、対話を始めるまえに、みなさんの発想の「たね」になりそうなことを、少しご紹介させていただいています(その日の対話のテーマとは、直接の関係はありません)。

 

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