第3回 哲学プラクティス連絡会での実践報告

10月22日(日)、台風が近づく不安定な気候のなかではありましたが、第3回哲学プラクティス連絡会(於:立教大学)にて、おんころカフェの実践報告をいたしました。大づかみには、

 (1)おんころカフェの特徴の紹介
 (2)テーマと語られた言葉
 (3)参加された方の感想(「無言の語り」について)
 (4)これからの展望
 (5)質疑応答

 といったものです。

まず、(1)おんころカフェの特徴、についてです。

これはがんや難病の患者さんやそのご家族との対話の場をひらき続けている、といったところにあります。身近な病や、それにまつわる苦労について、じっくりと対話をする場というのは、なかなかないのではないでしょうか。

 次に、(2)テーマと語られた言葉、についてです。

これまで、「安心」「折々の喜び」「私」「自分らしさ」などをテーマとしてとりあげました。全ての発言をお伝えしたい思いはあるのですが、ここでは主なものを少しだけご紹介したいとおもいます。

「安心」

・安心ってなかなかできないけど・・・プチ安心くらいならあるかなあ。
・安心ではなくて安心感を求めているような気がする。

「折々の喜び」

・散歩の途中で花が植えられているのを見たり、お地蔵さんに花が供えられているのを見て。
・折に触れての喜びは、生きることの表現そのもの。喜びと悲しみは別物ではない。

「私」

・若い頃はやり直したかったけど、この頃はそうでもなくなった。やり直したら私じゃなくなる。

「自分らしさ」

・人は生きたように死んでゆく。

さらに、(3)参加された方の感想(「無言の語り」について)、です。

ここで私たちは、特に印象深い出来事であり、出会いでもあった、Aさんとのやり取りを、「無言の語り」と題して紹介しました。その方は、おんころカフェに参加された当初は、ご自身の名を告げることも、語ることもなく、途中で席を立たれたこともありました。ですがその後、回を重ねるに連れて、ゆっくりと語りはじめ、メールにて感想を送ってくださったのです。Aさんは、身近に存在している病について、少しずつ、ご自身の言葉で、考えはじめていたのだと思います。

当然のことですが、おんころカフェでは、発言をしないことも、途中で席を立つことも、まったく問題はございません。語らずとも考えることもあるでしょうし、今はまだ話せない、言葉が見つからない、といった方々もいらっしゃるだろうからです。言葉になる以前の、もやもやとするような思いと、じっくりと向き合うこと、〈聴く〉ことの大切な意味を、Aさんから教えていただいたような気がいたします。

そして、(4)今後の展望、についてご紹介いたしました。

まず、東京での取り組みについてです。現在取り組んでいる、おんころカフェ@Tokyoを、病院においても実施していきたいこと、「おんころ対話研究会」(ミニレクチャー付きの対話)を充実させていくこと、複数言語での「おんころカフェ」を拓いていきたいこと、などをお伝えしました。

また、福島県での開催を模索していることもご紹介いたしました。

もし、原発事故の被災地に住んでいて、我が子ががんになったとしたとします。

仮に専門家から、「放射性物質の影響は、統計的には考えられない」と言われたとしても、親の立場からすればどうしても割り切れなさが残るのではないか?「数値」や「リスクの比較」だけでは捉えきれない、そうした「割り切れなさ」と向き合えないかどうか、現在考えております。

最後に、(5)質疑応答、について。

発表を聞いてくださった方々からは、主に「病や死と向き合うことの難しさ」に関するご質問をいただきました。人生のなかで、誰もが病み、死と向き合うにもかかわらず、自宅で親族を看取ることも少なくなり、地域社会が協働して葬式を開く術も失われつつあります。そういった社会環境のなかで、おんころカフェの役割は何なのだろうかと、改めて考える機会をいただきました。

当日は足元の悪いなか参加頂いた皆様に、感謝申し上げます。また、乱筆をお詫びするとともに、拙稿を読んでくださった皆様にも、深くお礼申し上げます。

(辻 明典)

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