おんころ Café

哲学プラクティショナーのDenis Pieretとの会話

ドゥニ・ピエレ (Denis Pieret)

リエージュ大学で博士号を取得。博士論文のタイトルは「グローバリゼーションのフロンティア――ネオ・リベラル政権下の移民流入管理」(リエージュ大学出版局、2016年)“Les frontières de la mondialisation. Gestion des flux migratoires en régime néolibéral” (PULg, 2016)である。その後、政治哲学の専攻と並んで、実践哲学に焦点を当てた。現在、講師としてリエージュ大学で哲学プラクティスを教えている。2014年以来、特定非営利法人PhiloCitéのトレーナー及びコーディネーターとして活動し、公共の場で哲学を広めることを目指している。 哲学プラクティスの領域では、子ども、少年、市民、教師、また医療専門家を含む複数のグループと対話をしてきた。 
3月には、富山大学での哲学的対話に関するシンポジウムのために来日。哲学相談おんころの代表理事である中岡成文らと共に演壇に立ち、また哲学対話を指導した。翌日には場所を大阪国際がんセンターに移し、おんころカフェに賛同している医師らと共にPhiloCitéの活動やおんころカフェの活動について意見交換を行った。最後に、おんころの私たちは彼にインタビューし、PhiloCitéにおける活動について質問するとともに、私たちの活動についても説明して、交流することができた。

ドゥニ・ピエレさんへの質問と回答

質問:あなたはベルギーのリエージュでNPOの「フィロシテ」に所属し、哲学カウンセラーとして医療チームと患者とをサポートしておられます。こういった医療者や患者とのミーティングはひんぱんにあり、そこで出る話題にあなたが一人の人間として影響される(しんどく感じるなど)こともきっとあると思うのですが、あなた(たち)自身も他の人からサポートを受けているかどうか、教えてください。
:これまでのところ、患者さんと仕事上で出会うことはめったにありません。まったくなくはないのですが、その少ない経験をもとにお答えしないほうがいいですね。とはいえ、医療チームが語る状況を聞いて、私たちが強く影響されることがあるのは確かです。サポートといえるようなサポート(たとえば、臨床心理士が定期的に受けとるような)はありません。しかし、その点は2つのやり方でケアしており、これまでのところうまくいっています。第一に、私たちはだいたいペアで活動します。ミーティングの後二人で振り返り、やり取りを分析するのです。第二に、フィロシテのチーム内部で自己スーパーヴィジョンのミーティングをして、そういった問題を取り上げることができます。

質問:大阪でお会いしたとき、みんなの前で発言することをためらう「内気」な方たちとどう付き合えばいいか、質問させていただきました。そのときあなたは、たとえば、その直前の発言に同意するかどうかを尋ねてみたらどうですか、と提案してくださいました。けれど、もし率直にさらに伺ってよければ、そう尋ねても答えが返ってくるとは限らないのです。そういった人は、他の人の意見についてどう思うかストレートにきかれることを、いやがるかもしれません。この人がもし、ストレートに聞かれる場合は発言するが、それ以外は発言しないまま座っている場合はどうすればいいですか?あなたの経験に基づいていうなら、この方は時間をかけて、自発的に自分の意見を言えるようになるでしょうか?それとも、哲学対話とは各人が言いたいことをいう言明の集合ではなく、「本当の対話」のはずですから、そのような対話が実現できるように、何かの「ゲーム」とか「対話のためのエクササイズ」とかを使うことが有益だと思いますか?
:いくつか違った角度からご質問にお答えします。
①誰かが議論で積極的になるように仕向けるのは、微妙かもしれません。その問題にはっきりした答えを出すのはむずかしいです。というのも、それは「問題」ではないかもしれないからです。ある場合には(それがどんな場合かは達成しようとしている目標によります)、黙っていてもかまいません。黙っているからといって、議論から遠くにいるとは限らないからです。少なくとも、みんなが満足していて、居心地の悪い人はいないように気をつけましょう。
②一般的にいえば、居心地の悪さは何とかする必要があると思います。居心地が悪いと考えることもできませんから、もちろん十分に気を付けながらですが、新しいスタンスが取れるように何とかする必要があります。
③「この人がもし、ストレートに聞かれる場合は発言するが、それ以外は発言しないまま座っている場合はどうすればいいですか?あなたの経験に基づいていうなら、この方は時間をかけて、自発的に自分の意見を言えるようになるでしょうか?」というご質問ですが、ストレートに聞かれる場合にしか参加しなくても、その方がかまわないのなら、それで問題はないと思います。何かその方が自発的に話すきっかけになるとすれば、「あなたの発言のおかげで対話がいい方向に行きました」と言ってあげ、「別の考えが浮かんだらまた話してください」とお願いすることでしょう。
④「それとも、哲学対話とは各人が言いたいことをいう言明の集合ではなく、「本当の対話」のはずですから、そのような対話が実現できるように、何かの「ゲーム」とか「対話のためのエクササイズ」とかを使うことが有益だと思いますか?」というご質問ですが、はい、ゲームやエクササイズはたくさんあります。ただ、ここでご説明すると長くなりますし、ライブで実験し訓練することが必要です。一例をあげますと、公衆の前で発言するのがむずかしいという問題に取り組むには、ミーティングの始めに参加者をペアに分けて作業してもらうやり方があります。私たちフィロシテでは、テクストを出発点にして対話をするとき、そのテクストについて各自の「問い」を作って欲しいとき、このやり方をよく使います。参加者はテクストを読んで、ペアで対話し、「問い」を出し合うわけです。そのあとで、その問いを参加者全体の前に持ち出します。このやり方だと、内気な方も発言をしやすくなります。ですが、これはほんの一例で、できることはほかにもたくさんあります。

質問:ベルギー(あるいはヨーロッパ)の参加者と日本の参加者との間に何か違い(文化的に言って)があると思いましたか?
:いいえ、予めそう言われて気にはしていたのですが、大した違いはありませんでした。気がつかなかっただけか、滞在が短すぎたためかもしれません。誰か違いに気づいた人がいれば、知りたいです。初めての人たちと一緒に仕事をすると、どこであっても戸惑いや困難が生じることはあります。私たちは刺激を与えようと努力しているわけで、戸惑いや困難は付きものです。ただ、日本だからといって特別な困難には気づきませんでした。

質問:あなたは、これまで患者や医療者とどのようなテーマで対話を行いましたか?
:前に言いましたが、私たちが普通一緒に仕事をするのは医療者たちであって、患者さんたちでは(まだ?)ないのです。フィロシテが学際的なヘルスセンターやセカンドライン緩和ケアセンターと関わった過去2年間の活動の概括をざっと見て、いくつかのテーマ(話題)を拾い出しました。どれも彼らが直面していた実際の状況に関連するものです。他のチームとかかわったときのテーマも何十とあります。
– チーム内で人種差別の問題が起きたとき
– チームと理事会との関係
– 仕事の効率
– 自己管理
– 明白な権力と暗黙の権力
– 平等と賃金格差
– 治療的ケアと予防的ケア
– 将来の不確実さ
– 人間関係のトラブルをどう解決するか
– 患者との文化的違いにどう対応するか
– 患者のノン・コンプライアンスにどう対処するか
– 自由と責任
– 研修者(医師)をどう組み込むか
– 同僚との公私の議論とうわさの問題
– 大目に見るか、率直に言うか
– エンドオブライフ、緩和ケア、安楽死と社会
– (セカンドラインの業務に就いているとき)フロントラインとの関係と翻訳方法論
– 個人主義と集団での仕事
– 医療行為としての言葉

質問:通常、対話は何名程度の人が集まり、どのような時間帯で行っていますか。また対話はどのくらいの時間行いますか。そして、その場所に特別な配慮をしていますか。例えば、患者と対話する部屋のインテリアはどのような感じでしょうか。(おんころカフェは、病院の会議室を借りて行っているため、リラックスできるようにテーブルに花を飾っています。写真を添付します。)
:10人から20人の間で、だいたいは17-8人です。22人以上いれば、グループを2つに分けます。月に1回、午前か午後に、だいたいは2-3時間でやります。時間は参加者の都合で左右されますが、掘り下げるためには3時間が望ましいです。場所には配慮しています(依頼者のミーティングルームを使うので制約はされますが)。トレーニングセッションをするときも場所は重視しています。空間的配置はとてもたいせつなのです。とくに、部屋を「病院くさく」しないためには気をつけたい点です。

おんころカフェが行われる部屋

質問:対話に参加した患者、医療者からの感想をいくつかご紹介いただけませんか。
:佐野さんがお伝えくださっている参加者の感想から、おんころカフェのみなさんがいい仕事をされていることがわかります。それこそ私たちが刺激して引き出したいものです。つまり、困難な状況であっても共に考えること、他の人たちと共にいて元気になれること。私としては、医療者からのフィードバックをいくらかお伝えできるだけです。ティーンエージャーのメンタルヘルスに関して近ごろまで一緒に仕事をし、予定通り終了したグループの、最新の例で、かなり要約したものです。
- (フィロシテにスーパーバイズされた対話は)関係性についての知的なラボで、対話を通して最善の知と強められた絆をもつことができる
- 一種の「一歩踏み出す」テストだ
- 責任感がいっそう強まったのと、同僚を新たな目で見ることができてうれしい
- 集中力がいっそう強まり、考え方や同僚との接し方を変えることができた
- あなたがたは私たち(医療者)の仕事の特殊性を知っているので、理解されている感じがした
- 私たちみんながもっている専門性に光を当て、活用された
- 同僚や患者との仕事の仕方について新たな見方を与えられた
- 見えていなかった問題が見えるようになった

質問:あなたが進行役を務める中で、対象が患者の場合と医療者の場合で進行の方法に違いがありますか。特に気を付けていることがあれば教えてください。:もちろん進行の方法は区別しています。というのは、医療者たちの目標は、もっとうまく一緒に仕事をできるようになるという、特殊で実用的な目標ですが、これは患者の場合はありえない目標だからです。とはいえ、私たちはいつものやり方を患者さんにも当てはめます。つまり、一般的な観念と具体的な状況を相互に関係づけること、困った問題でも興味を引く面はないか探す一方、それを解決して快適な状態を維持すること、気持ちよく集まれるまとまりのあるグループを作ることです。また、もしかすると対話の出発点を増やしてみる(文章を読む、絵、写真、アート、音楽)とか、考えを表現する仕方を増やしてみる(文章を書く、図を描く、絵を描く、演じるなど)かもしれませんが、これは脈絡がなく、いま私の頭に浮かんだ思いつきにすぎません。
医療者と仕事するときは、実用的な問題が問われていることを決して忘れません。医療者たちには、強く自信をもって仕事に戻り、困難な状況に力を合わせて対応してもらわないといけないのです。

質問:安楽死という選択肢があることで、死を意識する病の苦痛を軽くすることができるでしょうか。あなたの個人的な感覚でもよいので、お教え下さい。
:私が思うには、安楽死の選択はきわめてパーソナルなことで、徹底的に突きつめて議論する必要があります。一つ一つのケースが特異なのです。ベルギーでは安楽死は厳密に言えば権利ではなく、一定の状況下では罪に問われます。とても慎重に法律で制限されているのです。安楽死が許される条件の一つは、鎮静できない耐えがたい苦痛(心理的な苦痛を含む)です。というわけで、技術的には、あなたの問いへの答えはイエスです。あくまでベルギーの法的枠組みの中では、ですが。けれどこれは、死へのよくある実存的な恐れを終わらせるオプションとして理解してはいけません。あなたの問いにそれなりの答えをできていれば幸いです。このテーマについては引き続き議論できればいいと思います。

質問:患者(対話参加者)の「安全」(セーフティ)の問題です。「傷つけない」ことが日本では重視され、「死」を露骨に口にすることもはばかられます。私たちもおんころカフェを開始するとき、かなり慎重になりました。そこで質問ですが、ベルギーでは対話参加者の「安全」をどう捉えているでしょうか。
:原則はどうかという形でお答えすることしかできません。ほとんどの哲学プラクティショナーは、あなたの言われる「傷つけない」原則に同意するでしょう。だから、あなたがたが言葉で傷つけないようにとても慎重であること、がんの患者さんを相手にするときはとくにそうであることは、よくわかります。哲学対話で誰かが誰かを傷つけるなどということは、もちろん起きて欲しくありません。ただ、ときどきは傷つくものなのです。だから、こう言いましょう。患者の安全に注意を払うのは必要なことだけれど、それが結果的にタブーを認めることになってはいけないのです。自分の苦痛を隠して、誰にも触られたくないことはあり、それはそれでいいのです。ただ、隠れた苦痛をまっすぐ見つめる強さができており、そうすると楽になることもあります。それは、自分に心の準備ができていて、一つ上のステージに行けると感じているからです。あるテーマを無理強いするのは意味のないことですが、すべてのドアは「開放可能」でなければなりません。ごく一般的な言い方をするなら、私たちの目標の一つは、参加者の成熟を促し、必要とあれば痛みを伴うことにもあえて立ち向かってもらうことにある、といえるかもしれません。

質問:おんころカフェでは患者と家族、医療者が参加し、あるテーマ(病気とは直接関係のない)について対話します。進行役によって少しずつやり方は異なりますが、私(中岡)が進行役をする場合、参加者のナラティブを重視し、とくに患者が自分の経験や心情を語り始めると、それを尊重して傾聴する方向に行きます。参加者Aのナラティブが他の参加者に共感され、参加者Bや参加者Cのナラティブを呼びおこすことも少なくありません。さて質問ですが、このやり方だと、哲学対話に求められる要素の一つである「批判的要素」が少なくなる傾向があります。あなたは哲学対話としてそれでいいと思いますか?
:あなたは患者さんたちを直面させることを避けたいのでしょう。それは正しいと思います。とはいえ、あなたが上に書いておられるのと同じ仕方で、ナラティヴによってある種の批判的作業をすることは可能ではないでしょうか。たとえば、2つのナラティヴに共通の点は何で、違いは何かを見てみること、それは批判的行為です。それはまた、「概念化」にもつながります。なぜなら、2つの違うストーリーのうちに共通のものを感じ取るなら、その共通のものに対してある一般的名称を与えなければならないからです。

質問:とくにDenisさんは富山大学の国際シンポジウムの講演で、「哲学対話に必要なのは、引き下がらない人、立ち上がって議論に加わる人、「あえて知ろう」とし、「自分の知性を使う勇気を持つ」人です」“A philosophical dialogue needs persons who do not set back, who take the floor, who ‘dare to know’ and “have the courage to use (their) own understanding”と述べています。これは近代西洋の啓蒙主義的モデル(自立した人間)を念頭においているように見えます。そこで質問ですが、あなたはがんや難病の当事者にも「自立性」や「勇気」を求めるのでしょうか?
:私が述べたことを説明する必要がありますね。そういった勇気を私たちが必要とするのは確かなのですが、「勇気を持ちなさい」と義務づけるような意味で述べてはいません。誰もがそれに従わねばならぬ勇気の模範(モデル)があるわけではないのです。もし「自分の知性を使う勇気」をみんなが持っているのであれば、――「ちょっとした」過ちは誰にでも経験がありますよね――多くの哲学対話をやる(促進する)必要はないことになります。自立性(これについてはもっと後で述べます)と考える勇気というのは、対話の条件というより目標です。出自、教育、価値観、心理状態、健康状態、季節などいろいろな理由があって、私たちは必ずしも「勇気」を出せるわけではありません。というわけで、お答えするなら、「がんや難病の当事者に自立的であれ、勇気を持てと私は要求しません。共に哲学対話をする中でその方たちが勇気づけられ、知性を使って自分の考えたいこと、考えなければならないことについて考えてくれるといいな、と思っているのです」ということになるでしょう。

質問:あなたはまた、「アイデンティティを揺さぶって自己現前を高めることが「哲学の仕事」であり努力effortである」と言われます。うかがいたいのですが、人生の終末期でもそのような「哲学の仕事」は大切だと思われますか?
:前に述べたとおり、本当の対話をしようとするなら、その「努力」は必ずしているものだと私は信じています。(佐野さんがお伝えくださっている患者さんの感想からも、それはわかります。「完全に客観視することはできませんが、一人で考えている時より少し遠くから自分を見られる気がします。……停滞している心の軌跡を少しずらしてもらえます」という感想でした。人生の最終段階で哲学するとは、その努力をする(アイデンティティを揺さぶり自己現前を高める)ことではないかとさえ思います。