おんころ Café

中岡代表 on Tour#2

「哲学相談おんころ」代表理事の中岡成文は、今月第46回日本保健医療社会学会大会(オンライン開催)に登壇します。

・対談シンポジウム 対談 哲学カフェとコミュニケーションデザイン
 中岡代表の報告は「死ぬことを見すえたデザイン思考は可能か 」

・シンポジウム「生きるための社会デザインを考える」

報告の詳しい情報に関しては学会大会にてプログラム日程表をご覧ください。
参加方法に関しても学会大会のホームページをご覧ください。

対談シンポジウムの報告要旨をぜひ読んでください!

死ぬことを見すえたデザイン思考は可能か
Is design-thinking which focuses on dying possible?

 かつて医療や科学技術を含む、社会の公共的「コミュニケーションデザイン」の研究・実践に臨床哲学の立場からかかわる時期があり、その後がんや難病の患者・家族、医療者を対象とする哲学対話(おんころカフェ)を始めた。この経験をもとに、エンドオブライフの観点を組み込んだ「生きるための社会デザイン」について考えてみたいが、それ以前に押さえておくべきいくつかの論点の層がある。

 第1に、ミクロ-マクロの接続の問題がある。「生きるための…」のコンセプトは生活者の視点を重視すると思われるが、ミクロな実践(哲学対話もたぶんホスピタルアートも)がどのように「社会デザイン」となれるのか、社会全体を少しずつでも変えられるのか、そもそもどの程度社会全体の利害を反映しているのか(代表制の問題)など、ミクロからマクロへの接続を意識しないといけないだろう。逆に、マクロからミクロへの接続関係をどう受け止めるかという問題もある。エンドオブライフの領域でいえば、がん対策基本法を始めとする諸施策により、がん当事者のサポートがやりやすい環境は整いつつあるが、医学・医療的対応に加えて就労支援などが少しずつ強化されているとはいえ、精神心理的(スピリチュアル)な面ないまだに十分考慮されてはいない。このような現状でトップダウンに学校における「がん教育」を謳ったところで、若い世代にどの程度浸透するか疑わしい。

 第2に、アクター間の相互行為とコミュニケーションの問題である。ヘルスケアは、まずは自らの健康へのセルフケアから始まり、それが家族やヘルスケアのプロ、さらには行政を巻き込むという広がりにおいて見ることができる。当事者、家族、プロ、行政、それぞれの観点や利害を「区別」しつつ、接続・調整していかなければならない。ヘルスケアに従事する個人の内部にも、プロの観点と当事者(自己自身あるいは家族)の観点が同居しているものであり、プロ意識に覆われて葛藤を起こすことのあるその間を調整する(メディエートする)のが対話的な倫理コンサルテーションだったりする。ここからの社会デザインはミクロではあるが、基本的モジュールとして欠かせないと信じる。

 第3に、死と生との関係である。「生きるため」のデザインがなぜ「死ぬこと」dyingを含まなければならないのか。認知症で「人格が崩壊する」親を見て、「生きることの恐怖」に悩まされる人を見た。死に先んじて死の影は射し、「喪」の作業は始まっている。それに気づかなければ、単なる動物ではないか。まだ日本では正しく理解されていないACP(アドバンス・ケア・プランニング)は、死の場面を先取りすることで人間が「生きかつ死ぬ」という現実を直視し、エンドオブライフの対応をリアルに熟慮させるものであるが、その際「もしバナゲーム」や寸劇などを使った対話的アプローチが有効と思われる。

 以上を踏まえたうえで、当日のシンポジウムでは、大事故で四肢に障害を負ったアメリカの緩和ケア医師による、死ぬことに「デザイン思考」を持ち込む提案を検討したい(TED 2015, BJ Miller: “What really matters at the end of life”)。人ではなく病気に焦点を当てた「まずいデザイン」である医療システムを彼は批判し、「あ~、気持ちがいい!」という感覚、〈ただ在る〉だけでいいんだという実感に患者がひたることを許す、「クリエイティブ」で「プレイフル」なエンドオブライフ医療のデザインを志向している。こんな一見ふざけたアプローチを含めて、死から生を見ることの可能性や、医療における哲学対話のさまざまな形とその限界について語り合いたい。